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琉球王朝が生まれた歴史の町

琉球王朝が生まれた歴史の町

 琉球王朝時代を象徴する町といえば、首里を思い浮かべる方が多いと思いますが、実は、王宮が首里城に移される以前、舜天(しゅんてん)王統、英祖(えいそ)王統、察度(さっと)王統の居城として、200年余りにわたって琉球国中山(ちゅうざん)の歴史の舞台となったのが、ここ浦添グスク。浦添グスク周辺を中心にガイド活動を行っている「NPO法人うらおそい歴史ガイド友の会」の玉那覇さんの紹介で、琉球王朝が生まれた町・浦添の史跡巡りを楽しんできました。

 浦添城跡は標高約130mの丘陵にあり、東シナ海や遠く読谷まで見渡せる絶景ポイント。昔の王さまたちも、この広大な景色を眺めていたんでしょうね。「浦添城跡」城壁はほとんどが復元されたものだそうですが、一部に当時のままの城壁が残っていて、少し周りの石垣とは色が違っていました。琉球王朝が生まれた時代から今もそのままの石垣が残っているなんて、感動的!このまま大切に保存してほしいですね。

 続いて、浦添グスクの北側にある「浦添ようどれ」へ。石畳の長い階段を降りると、立派な石積みのアーチが姿を現しました。アーチがあるのは、ここから先は「聖域」という印だそうで、入る前にお辞儀をして中に進みます。「浦添ようどれ」は琉球国中山王一族の墓で、英祖王陵といわれている西室と、尚寧(しょうねい)王陵の東室の2つ墓室があります。自然洞窟を掘削して造られていて、沖縄の墓造りの原型になったと考えられているそうです。

 浦添グスクのある仲間集落を散策していると、浦添市内で最も大きな井泉のひとつ「仲間樋川」に辿り着きました。集落の飲用水や生活用水として利王されていましたが、昔から井泉の清浄な水はセジ(霊力)を持つといわれ、信仰や祈りの場所としても大切にされていたそうですよ。

 少し足を伸ばして、琉球王国時代に王府によって整備された普天間街道(首里城~浦添間切番所~宜野湾間切番所)の一部で、昨年国の指定文化財になった「当山の石畳道」と「安波茶橋」へ行ってみました。「当山の石畳道」は全長200mほどの部分が残っています。現在は浦添大公園内にあるので、散歩やジョギングをする人、学校帰りの学生たちが行き交い、昔と変わらない生活道路として活用されているようです。今と昔が繋がっている感じがして、ちょっとうれしくなりました。

 「安波茶橋」は石造のアーチ橋で、経塚と安波茶の谷間を流れる小灣川上流に架けられた南橋と、アブチ川に架けられた北橋からなります。深い谷の滝壺の側に巨岩を積み上げ、当時の琉球が持つ技術の集大成といってもいいほどの難工事だったそうですよ。

戦前・戦後から残る歴史と植物があふれる町

戦前・戦後から残る歴史と植物があふれる町

 糸満市の米須地区は沖縄戦の激戦地で、多くの人が亡くなりました。そんな戦争の傷跡を残しつつも、豊かな自然や文化が随所に見られるそうです。どんな発見があるのか、のんびり集落内を回ってみました。

 戦前には琉球松の大木が並木を造っていたという「米須馬場」へ行ってみました。馬場のことを方言で「ンマイー」といい、琉球王朝時代に各地に造られました。毎年、収穫の時期に、村の人々が収穫した農作物を持ち寄って集まり、それぞれの出来栄えを品評したそうです。「ンマイー」はアブシバレー(虫払い)や原勝負の主会場でもあり、その際に競馬が行われたといわれています。現在はキレイに舗装され、真っ直ぐに続く広々とした道路です。

 他にもすごい庭があると聞き、儀間家の庭を訪ねました。儀間家のガジュマルは樹齢120年。敷地内を接ぎ木などで1本に繋がったガジュマルが取り囲み、その姿はまるで龍のようで、「儀間家のドラゴンガジュマル」と呼ばれて親しまれているそうです。見事に剪定されたドラゴンガジュマルは、一見の価値あり。

 昔ながらの伝統的な住居を眺めたいなら、赤瓦屋根の家屋やヒンプンがある金城家がおすすめです。現在は使っていないそうですが、豚を養っていたワーフール(豚小屋)も残っています。

 集落内を歩いていると、あちこちに物置のような大きな建物を発見しました。これは昔の「タバコガマ」だそうです。昭和30年頃、米須地区では葉タバコ栽培が盛んで、米須馬場の東端と西橋に23棟の共同タバコ乾燥ガマがあったそうです。現在は、そのうちの1棟だけが残っています。昭和45年頃から、個人で自宅内に乾燥ガマを作ったため、共同乾燥ガマは約15年間でその役目を終え、個人の乾燥ガマも5棟のみ残り、倉庫として使っているのだそうです。

 戦火で多くの建物が焼失してしまった米須地区ですが、それでも消えなかった地域の魅力がいっぱい詰まっていますね。花と緑にあふれた米須地区を回ってみて、沖縄の人々力強さを感じることができました。

壺屋焼の歴史と、戦火をくぐり抜けた町を巡る

壺屋焼の歴史と、戦火をくぐり抜けた町を巡る

 やちむん(焼物)の町として、観光客にも人気の壺屋。1682年、当時の王府が美里村(現沖縄市)の知花、首里の宝口、那覇の湧田にあった窯元を壺屋に統合して、陶器作りを盛んにさせたという記録が残っているそうです。琉球石灰岩の石畳が敷き詰められた壺屋の「やちむん通り」は、その長い歴史を物語る場所。通り沿いに建つ「壺屋焼物博物館」のすぐ近くにある「南ヌ窯(フェーヌカマ)」は、壺屋にたったひとつ残った荒焼の登り窯です。傾斜地を利用して作られており、幅3m、長さ20mのかまぼこ型で、窯の上は赤瓦屋根で覆われています。現在は使われていませんが、壺屋焼300年の歴史を今に伝える県指定文化財。

 メイン通りを歩くと、道の両側にたくさんの個性的な工房やショップが並んでいて、ひとつひとつ手作りしたマカイ(椀)やシーサー、抱瓶、カラカラ、マグカップなど、さまざまな作品が売られています。こういうのが女子にはたまらないですよね。壺屋焼の特徴である素朴で力強いベテランの作品から、普段使いしやすい若手の作品まで、バラエティ豊かなやちむんが並んでいて目移りしちゃいます。

 つい買い物に夢中になってしまいましたが、今度は壺屋の魅力のひとつでもあるスージグヮー(路地)巡りをしてみましょう。壺屋は、奇跡的に戦争の被害が少なかったそうで、石垣に囲まれた昔ながらの路地裏や貴重な文化財が、当時に近い形で残っているそうです。クネクネと細い路地が続き、まるで迷路のような道を迷いながら進むのが町歩きの醍醐味!「番所ガー」などのムラガー(共同井戸)、「北ヌ宮」「ビンジュルグヮー」などの御嶽・拝所、国指定文化財である「新垣家住宅」などの史跡を巡りつつ、戦前の壺屋に想いを馳せながらの散策を楽しんできました。

阿麻和利の里に残る文化遺産

阿麻和利の里に残る文化遺産

 世界遺産にも登録されている「勝連城跡」は、うるま市のシンボル的存在です。15世紀、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城し、自然の断崖を利用した難攻不落の城として有名ですよね。勝連城跡の標高は約60~98m、北は金武湾やうるま市の離島を望むことができ、南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城城跡が一望できます。勝連の町並みも360度の大パノラマで見渡すことができて、最高の眺め!丘陵をうまく利用して美しい曲線を描いた石灰岩の城壁は一番の見どころ。外から眺めると、角度によってその姿が変わって、とても興味深いですね。

 今度は、城下町である南風原集落に足を運んでみましょう。南風原集落は、勝連城の南側の傾斜地である元島原に発祥したと伝えられています。1726年、首里王府からの許可を受けて現在の地に移動し、南風原村を形成したそうです。道路網を基盤目型に整然とし、共同井戸や用水地、防風林、防潮林も計画的に配置されています。今から270年以上も前から、都市計画に基づいたまちづくりを進めていたんですね。

 集落内を散策していると、道端にちょこんと座っている小さな獅子を発見!教えられないと見過ごしてしまいそうなほどひっそりと佇んでいるのは「南風原の村獅子」で、石灰岩を加工して作ったという素朴な獅子です。現在の地に移転した際、村の境界として、またフーチゲーシ(邪気払い)として、集落の東西南北に置かれたと伝えれており、現在は北側と南側の獅子だけが残っています。

 集落内には、共同井戸である「東ウカー(アガリガー)」や「イリーガー(イリガー)」、子年と丑年に行われる村アシビが無事に行われることを祈願して作られた「アシビナーのウカー」など、多くのカー(井戸)が残っています。現在は使用されていないカーがほとんどですが、旧暦2月・8月には村御願を行うなど、今でも大切な場所として扱われている歴史のある場所だそうです。

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