沖縄の風景づくりの変遷
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琉球王朝時代、先人たちは、亜熱帯海洋性の自然風土と島しょという立地特性のもと、自然と共生し、各国各地との交流の中、さまざまな文化を取り入れて、独自の風景を作り上げてきました。ここでは、琉球王朝時代から現代までの風景の変遷を振り返ってみます。
1)琉球王朝時代(15世紀前半~明治11年)
第一尚氏王統が確立し、まず首里城や龍潭の整備がなされ、やがて第二尚氏王統の尚真・尚清王の代に王城内外の整備が一段と進められ、16世紀半ばには王国の首都の姿が整いました。
その風景は、ペリー来航時の乗船著者による『スポールディング航海記(1853年)』では、かつての首里を「緑したたる街並み、見晴らしのよい丘、こんもりと繁る木立、どれをあげても首里の都は世界一美しい」と絶賛され、沖縄文化財の権威である山里永吉氏の『沖縄史の発掘』では、「~もし首里の街が戦前のままそっくり残っていたら、沖縄は京都、奈良、日光と肩をならべる観光地になっていただろう。~首里の街の美しさは、ちょっと他に類のない美しさであった」と讃えるほど美しかったとされています。
今は、復元された首里城周辺などをはじめ、首里金城町の大アカギ、石垣道など、琉球の王城と城下町のたたずまい全体に沖縄の伝統的風景の原点を見ることができます。
2)近代(明治11年~戦前)
廃藩置県により、沖縄県が誕生し、政治経済の中心は、首里から那覇へ移りました。明治政府の近代化政策により、風景に大きな変化が起こりました。公共建築は、大正年間に鉄筋コンクリート構造が導入され、台風や白蟻対策として多く採用されました。
3)米軍統治期(戦後~復帰前)
那覇市国際通りには、デパートや個人商店、映画館などが建ち並んでいきました。国際通り周辺は、経済・商業の中心地であり、戦後復興の象徴にもなりました。しかし、急激な都市化が進み、狭小な街路、公園緑地の不足などの都市計画上の問題や、スプロール化が深刻なものとなりました。経済振興とともに、まず木造瓦葺きが広がりましたが、やがて、アメリカから輸入されたコンクリート住宅が、沖縄の気候条件にも有利であることから、急速に普及していきました。屋根形状も陸屋根と小屋組みの寄棟屋根が混在するようになりました。
4)現代(復帰後~現代)
1972年の本土復帰後、社会資本整備が進められ、中心市街地においては建築物の高層化、巨大化、周辺地域の市街地化が進み、返還された基地跡地の多くが新しい市街地に生まれ変わりました。那覇新都心地区では、職住が近接した商業・業務用途と住宅用途が共存する中高層の共同住宅が多く立地しています。また、行政施設や文教施設といった公共建築物、さらにはリゾートホテルなど多数の大型建築物が整備され、住宅においては勾配屋根に赤瓦の伝統様式を取り入れたRC建築物(鉄筋コンクリート)の普及や本土からプレハブ住宅が移入されるなど、住宅様式の多様化が進みました。
5)これから(現代~未来へ)
現代社会では、少子高齢化・人口減少・環境問題・社会経済のグローバル化などの社会問題により、大きな転換期を迎えています。このような変化の激しいときに、新たな枠組みが未成熟なまま、古い伝統的なものが崩壊していくと、地域は衰退していくだけです。それを踏まえ、沖縄県の将来像を描く上で、何を残し何を変えていくかを明らかにし、「沖縄らしい風景づくり」を行っていくことが必要となります。
平成22年策定の「沖縄21世紀ビジョン」では、沖縄固有の景観・風景・風土を重視し、時間とともに価値が高まる「価値創造型のまちづくり」(景観 10年、風景100年、風土1000年)を実現するとしています。このように風景づくりは、息の長い、粘り強い長期的な視点が重要となります。
沖縄らしい風景づくりは、県民一人一人が意識を持ち、“美ら島沖縄”を創り上げ、沖縄の暮らしを豊かにし、住む人が郷土に誇りや愛着を高めていくための取り組みであり、訪れる人が魅力を感じ交流を促す経済活動とも調和した取り組みでもあります。